高雄温泉
那須温泉を区分けして、那須七湯、八湯、十湯、十一湯といろいろある。板室温泉を入れたり入れなかったり、八幡温泉や新那須温泉を入れたり入れなかったり。はてまた、飯盛温泉や郭公温泉まで入っている数え方もある。
おおるり山荘の壁に貼ってあった古文書は那須八湯(那須湯本、北、旭、大丸、弁天、高雄、三斗小屋、板室)で、最近まで高雄温泉は野湯の代表として有名になっていたが、2004年冬以降はおおるり山荘として面目を一新した(昔を懐かしむ向きも多いだろうが)。
そもそも野湯となる以前には旅館が有ったわけだし、手前にある十石荘はズーッと高雄の源泉を使っていた。
おおるり山荘の内湯の壁に開湯以来の経過(明治まで)を記した文書のコピーが貼ってある。
以下は文字を現代のJIS漢字に変えて披露する。写真から読みとれない部分についてはご容赦頂きたい。
高雄温泉はまた高雄股温泉ともいい、雄の字も古くは尾の字をあてている。蓋(けだ)し高尾とは、高い尾根の意であろう。
発見は甚だ古いというだけで、確実なところは分からないが、神聖視されて、長い間浴用に供されないでいたらしい。天保年間(一説に万延年間という)に到って、高久村の元代官高久多次郎(一に覚左右衛門に作る)という人が浴場を開いた。それは前記のように、古屋敷のところであった。当時信仰登山者がここで垢離を取ったもので、ためにお行の湯とも呼んだという。
安政三年高久多一郎から○○惣八に引き継がれ、近年になって○○政一氏から田中○氏に引き継がれた。現地すなわち源泉の傍らへ浴場を移したのは明治三十三年である。ちょうど信仰登山が衰えて、白衣の登山者も疎くなり、旅館経営はあまり奮わなかったが、これに代わって湯垢(他の温泉場で湯の花というもの)採取は、那須で一番盛んで、今でも源泉から豊富に湧出する湯の大部分は、多数の沈殿槽に注がれている。そして硫黄色の沈殿物が採取され、これを乾燥せずに、そのまま瓶詰にして売り出されている。これに温泉の「生詰」という商標を登録し、所謂生詰の元祖であるという。
残念なのは以前の旅館が焼失した時期について触れていないことだが、イメージが悪くなるので触れていないのであろうか・・
どなたか火災の正確な情報をお持ちで有れば教えて頂きたいものだ。多分昭和35年~45年の間ではないかと思っているが、いくらネットで検索しても出てこない。
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